論点を探る 田原文夫氏の観方   2009年2号より

論点を探る

企業情報システムに混乱をもたらした要因
  その根源的理由から逃れ出すには何が必要か


                 田原文夫

    システム部門の同類

 情報システム部門のアウトソーシング再発再開を聞いて、同じ運命をたどった組織が他にないのか、と探したら、あった。調査部門(または、シンクタンク)である。
 調査部門は「情報」を扱う。「情報」を扱う部門が、名称はともかく粗末に扱われている。これは何を意味するのか、興味があるところだ。その部門は、社内で厚遇されているのか、冷遇されているのか。その状況から、その企業の情報に対する態度が窺える。
 その組織の扱いは、そこに属する人の扱いにも直結する。日本では、他人が調査して得た情報を信用しない傾向がある。「そのことは、自分の方がよく知っている。あなたに言われたくない」という発言に現われる。
 他人が信用できないのだろうか。判別はしがたいが、実際に、専門の担当部門がありながら評価しない、信用しない。それなら始めからそんな組織を作らなければいいのにと思うのだが、やはり作ってしまう。
 組織内に個人的な組織を作る人がいる。「ろうかとんび」という言葉がある。自らの情報組織を作り、情報を触れ回る人がいる。この意味を考えてみるがいい。
 必要な情報は、自分で集めるものという基本は変わらない。この観点からすると、情報共有、共同利用は難しい。「ろうかとんび」は、情報共有、利用の補助手段とすると、分かりやすい。
 情報処理は究極的には個人的なものであり、最終的な情報処理は「本能的」なものだとすれば、全員がその能力を持ちながら、それには雲泥の差があるものでもある。
 この差を埋めるのは難しい。だから、能力のある人を求めることになる。
 社長が替わり、経営方針が変わる。当然、求められる情報の有り様が変わる。仕事だから当然だが、情報・調査部門は、その変化に迅速に対応できない。
 そこから生ずる不満が、情報・調査部門に対する評価を決める。それが内部活用か、外部依存かである。
 日本的な風土は、自社内の情報・調査に対して、否定的な評価をしがちである。「あいつは頼りない」といった言葉には出さないが、態度になり、それが外部機関への委託という傾向を強める。こういう傾向は、事態を複雑化させる。
 根拠はない。勘で言うが、自社の情報・調査部門を粗末にする企業は、必然的に情報システム部門も粗末にする。
 調査部門を姥捨て山のように扱い、そこに所属する者を厄介者扱いする。情報を扱う部所と、所属する人に対する扱いは、そのまま情報の扱いに通じる。
 だから、情報システム部門を粗末に扱う企業は、情報を大切にしていない、と言いたくなる。
 これでは、情報社会、競争社会で生き残れるはずはない。

    混在と混同/繋がりと断絶

 先月号でも触れたが、システムはいくつにも分類できる。その例として、コンピュータ・システム、データ処理システム、情報処理システムを挙げた。別の分類方法として、社会第一システム、人間第一システムも取り上げた。
 これらのシステムは、スタンド・アロンで始まったが、時代とともに統合、合併され、あたかも最初から一つのシステムであったかのごとく存在している。
 だが、混在はあくまでも混在である。混在とは、システムの思想性を言う。
 金融機関は、以前も今もシステムを、情報系、勘定系に大別している。一見、別のシステムのように見えながら、統一されている。さりとて一つのシステムではない。
 システムは、何処かで、何かで、インターフェイスを取る。それは通信だったり、データベースであったりする。インターフェイスのあるべき姿の特定はできないし、しようとしても、難しい。
 インターフェイスではないが、システムとして大切な要件は、フィードバックの有無である。
 システムは、相互に関連しあって初めてシステムである。だから、システム要件として「フィードバック」を重視する人がいる。
 単独システムは、個々の人にとってのシステムである場合がある。だが、全体から見ると、システムとは言えない。全社的効用をいう場合に限りがあるからだ。
 遠い昔のようで近い出来事だが、単体パソコンと、ネット繋がりのパソコンが、どちらがシステムとして有効かという議論が深まった時代があった。当時、米国ではネット繋がりが多く、日本では単体システムが多かった。
 日本でネット繋がりシステムの有効性が広まったきっかけが、阪神淡路大地震だった。平成7年のことである。時代の動きの激しさが過去のように見せつけたのだ。
 システムの混乱は多様である。順を追って観察する。ただし、順不同である。

       混乱の始まり

 コンピュータは大型機だけという時代が長く続いた。大型機はメインフレームと呼ばれ、システムの中心を示す。以後、ホストコンピュータ、サーバーなどと呼び名は変遷する。呼び名の変遷は、それぞれの役割を示し、情報システム有り様の変遷を示している。
 繋がりでも断絶でもないが、大型機だけで全社システムを構築しようという試みが日本中、いや世界中で巻き起こった。その始まりが、MIS(Management Information System)の追求だった。
 MIS使節団(通称、奥村ミッション)が米国に向かったのは、昭和42年10月である。
 全社の業務をすべてコンピュータ化し、業務の効率化と業績の向上を目指すという壮大な構想だった。全社のデータを一元的に収集し、統合し、活用したら、いい経営が出来るという言い方もすごいが、多くの経営者がその言を信じた。
 ミッションの帰国後、経営者はこぞって「社債の発行とMISの構築(コンピュータの導入)」が主な話題だったし、その実現が勲章になった。時代の反映だが、落ち着いて考えれば、そんなことでいい経営(内容が不明だが)が出来ると、本気で信じた人がいたのは確かである。
 今からでも聞けるものなら、今からでも当時の心境を聞きたいものだ。
 そのMISも、日本では今は死語になったが、米国では「データ収集システム」として生き、役に立っている。MISは所詮、その程度のものだった。
 見知らぬものに過大な期待をするのもいいが、見抜けなかった責任は免れまい。
 MISの失敗に反省もないまま、SISの有用性が喧伝される。だが、MISと同様、SISも今や影も形もない。それほどSISは価値のないものだったのだろうか。そんなはずはない。戦略のない、あるいは弱い戦略しか持ち合わせていない企業は、それだけで死を覚悟せねばならない。
 システムに戦略的なものを期待するのは間違いではない。必要なのは、期待ではなく活用だ。システムを理解することだ。
 必要なものを手に入れただけで、効果を発揮するものなどない。効果が発揮できるような環境も大事だが、努力も大切だ。
 何もせず、新技術だけに頼る。これでは無責任である。

        混乱、その二

 MIS、SIS導入の失敗が原因ではないと思うが、情報システムの外注が再び目立ち出す。
 外注=悪ではないが、今深刻化する医療の混乱も、医療費の抑制だけを目指し、本質的な問題解決に注目しなかったのが原因だ。
 同じように、将来展望を欠いたまま、新技術に頼り、コスト削減が最大目標では、将来が思いやられる。
 ここに来て、全てアウトソーシングしてしまっても平気だというような、本来必要ないシステムを社内で構築してきたという決断に責任はないろいうのだろうか。
 MIS導入に狂奔し「MISはいくらで買えるのか」と問うた経営者は、今何を考えているのだろうか。全体と、将来を見据える努力を欠き、現状維持に汲々とする無定見さは、大切な情報を軽視する姿勢に現われている。
 ユーザーがこれでは、夢は実現しないし、するはずもない。新しい宣伝キャッチコピーがメーカーの販促として多用されるのは、今も昔も変わりはない。
 メーカーの販促は、虚偽ではない。それが仕事だからである。その意図が見抜けず、信じたのは、昨今の「○○詐欺」に遭ったのと、少しも変わらないではないか。

        混乱、その三

 今も当時も、コンピュータは経営者にとって不可解で、扱いにくいものの一つらしい。だからといって、メーカーの販促に惑わされた責任を反省する声は聞いたことがない。
 コンピュータの利用方法について、メーカーに頼るということは、かつては一般的だった。それにしても、MIS以来、経営者の反省の欠如は、危険でさえある。
 分からないから任せるに始まり、逆に、システムをよく知っているという人は、必要以上に現場に干渉する。
 トップに立つもの、自分の得意分野に口出しするな、という仕事のイロハもわきまえない態度も目につく。これらがシステムの混乱を増大させている。
 情報システムは戦略的に使ってこそ価値がある。それがコスト削減であってもいいが、コスト削減の道具としか理解できないのも困ったものだ。
 全社システムの構築、という意味ではシステムの統合が必要になるが、今のようなパソコンは存在しない時代を振返ると、当然だが、データはバッチ入力だった。
 その状態で、リアルタイムが必要な、リアルタイムでなければ効果がないシステムまでも構築しようとした。
 全社的な統合システムとは何か、それも、当社にとってはどういうシステムが必要なのか、という発想はまったくといっていいほど見当らなかった。

        混乱、その四

 当社に必要な統合システムはどういう形のものかということが、外部(経営陣)からは判断しにくかった、としても言い訳にすぎない。
 例えば、情報システム部門が、外部の人間が、コンピュータ室への無断立入を禁止した。この外部とは、必ずしも「社外」の意味ではなく、当該部門以外のすべての部門を指した。
 こういうやり方が、ある意味、機密性を強調し、排他性も助長した。機密を要する部門は他にもあるが、コンピュータと機密性と、どういう関係があるのか、を考えた形跡はない。
 その結果、自社の社長をも部外者扱いしてしまった。
 こういうセンスは、異常と言うしかないが、それに対する経営側の反論を聞いたこともない。笑い話になった程度だ。
 その反省と後悔からか、今度は、すべて公開だ。その気があろうがなかろうが、アウトソーシングとは、まさにすべての外部公開なのである。
 極端すぎる。
 コンピュータ部門が何をしているかについては、分かりにくかったのは事実である。その分かりにくさを解きほぐしたのが、パソコンの出現だ。
 今度は、そのパソコンが、システム部門に大きな混乱を引き起こした。
 システム部門の混乱とは、パソコンの乱入で、システムの統一性を失わせる、自分の仕事がなくなるなどの反応となって現われる。
 ここからも、システム担当部門の意識が明らかになる。全社の仕事を担当している意識はなく、自分の仕事をしているという意識が浮かび上がる。
 コンピュータの性能は、規模に関係ない。仕組みが同じだから、能力に差はない。それを見た人が、同じことが出来るのなら、高価な大型機はいらないと言いだしたのも無理はない。
 だが、それが本当なら、スーパーコンピュータの開発競争に世界中が熱中する理由に答えられない。大型機に、パソコンに習熟した人も答えられない。
 コンピュータをよく知る人は説明はできるが、一般人が納得できる説明は出来ない。

        混乱、その五

 初期のコンピュータは、仕事の効率化、合理化が目的で導入された。コンピュータそのものが高価だったし、企業だから、それ以上の効果を期待したのも当然である。
 社保庁の労使間で「コンピュータ扱いの制限協定(一日のタッチ数の制限)」など、その名残である。
 経営側の合理化要請と、それに反発する労組。この構図が、時の世相を浮かびだす。労組の労働強化反対、合理化による失業の恐怖の反映である。
 情報システムに対する誤解の最たるものである。もろもろの難題を克服するためか、コンピュータの神話が作り出される。
 その神秘は、パソコンの出現で解き放された。最初に手を出したのが、技術部門である。大型機は、使いたくても、使える環境になかった。パソコンは、手頃なコンピュータの出現だった。部門別コンピュータの利用の始まりでもある。技術部門での、パソコン利用は急速、広範だった。
 パソコンの活用は、今までとは別の意味で仕事を効率化した。それ以前は、即時性が必要な検索まで、大型機で、バッチで、では不便この上ない。
 パソコンと筆者は言ったが、当初は、マザーボード上にトランジスター、抵抗器、コンデンサーなどが並び、 8桁のディスプレイとテンキーだけだった。記憶装置はなく、必要な場合は、カセットテープを使っていた。
 こんな程度のモノでは、話題にはなったものの実用性は乏しかった。実用になるには、更に多少の時間を要した。
 技術部門では「無」とパソコンが比較され、事務処理部門では「大型機」とパソコンが比較になる。前者では、パソコンの評価は高く、後者では低くなる。当然の結果だ。
 コンピュータの使い方が、立場によって、仕事の仕方によって違うが、それにしても違いすぎた。大型機は大量データの収集と処理向きである。逆に、少量のデータ収集と処理には向かなかった。
 それに適したのがパソコンだったと言える。技術部門に比べて、事務部門でのパソコン利用は遅れた。一つには、大型機に依存していたことが挙げられる。多少の不満はあったが、それほど切実ではなかった。
 事務部門でのパソコン利用の拡大を狙ったのが「OA化」である。これにもメーカーの販促が絡む。ここには、大型機メーカーだけではなく、パソコン専業が活躍する。OA化の推進で、事務所にパソコンが溢れるが、費用/効果がはっきりしない。
 読みにくい手書文書が読み易い文書に代わる。字は綺麗になるのと、内容が改善されるのとはイコールではない。OA化にかかる費用/効果のバランスが分からない。綺麗な字と内容は比例するのかも不明だ。また問題が起こる。

       混乱、その六

 作表が結果の情報システム部門にとっては、「表」に数字を入れる作業は想像外だった。
 だが、手作業の機械化として、一般の人間には理解しやすかった。これなら大型機に頼らなくても自分でやれる、となる。
 その認識が、時代を大型機のシステム作りの経験者を減らす方向に進める。
 一方で、パソコン坊やを大量生産する。ここから、全社システムとパソコンシステムの大量利用との区別がつかない状況を生み出し、取り返しがつかないほどの大きな誤解が生ずる結果となっていった。

       混乱、その七

 筆者がシステム部へ赴任して最初に発した質問は「当社の商品数は?」だった。
 答えはなかった。
 そういうことが分かるコンピュータの使い方をしていなかった、という状況は間もなく分かった。
 コンピュータの使い方について、混乱は、経営陣にもある。
 パソコンの出現で、混乱は増す。
 経営陣は、全体システムの理解が必要なのに、個々のシステムの理解に終始する。パソコンが、全体システムの正しい理解から、なお一層遠ざけてしまった。
 これが、また混乱を増幅する。
 ある時、経営者の報酬計算を別システムで実行したいと言う経営者に出会った。
 理由は、経営者の報酬は社員に知られたくない、社員には非公開が原則だというものだった。
 それほど、経営者は、役員報酬を社員に知られたくないのか、とおかしくなった。
 秘書課で、パソコンで作業を始める。だが、システムは、これでは終わらない。ここから始まると言ってもいい。
 税金を始め、保険の天引きがある。これらが別作業として増え、仕事が重複する。だが、経営者には、その自覚がない。自分たちの報酬を社員に知られずに済むということだけに満足し、全体のシステムに目が向かない。
 企業の合理化に注目するなら、こんな発想はしない。
 こういう主張が、合理化を妨害している点にも気がつかない。困った経営者である。
 こういう態度が、システムのアウトソーシングに躊躇しない原因にもなる。筆者は、彼らを、仕事もシステムも知らない経営者と断じる。
 だが、全体システムと個別システムの間を調整する部門は、何処の企業にもなかった。
 システムの作られ方は、コンピュータの利用方法に違いが出る。仕事から見れば構わないが、全体から見ると、問題がある。統合したくても、できなくなる。
 システム構築の思想の統一がないのだから、当然である。技術的な統合と思想的な統合。これは別物だから、両者の統合は不可能だ。
 結果は、技術的な統合だけに終る。思想的な統合は、別の面で強調される。仕事中心ではなく、覇権争いが主題になる。
 システムの技術的な結合、統合は難しくはない。インターネットでも出来る。だから、インターネット繋がりのシステムが、全体システムとして、あちこちに出来る。
 全体のシステム設計のいらない、全体構想が欠けた、形だけの大規模システムが出来上がる。
 以前からのシステムとは、発想が違うから、バージョンアップが簡単ではない。簡単どころか、する方法がない。
 仕方がないので、現存のシステムを使い続けることになる。不思議なのは、そのシステムを丸投げ外注しようという行動を取ることだ。
 自社のシステムをよく知る人が社内にいないが、社外にいると考える思考方法も理解できないが、こういう行動が社会一般に見られるのも、誠に不思議なことである。
「賢あって知らず、知って用いず、用いて任せず、任せて責任を取らず」という故事が、システム部門にはよく当てはまる。
 旧来からのシステムは、レガシーシステムと呼ばれ、バカにされ気味だが、企業は、そのシステムで動いている。しかし、誰も感謝しない。
 噂から、大型機をパソコンに置き換えたらという誘惑が生ずる。アプリケーションによっては可能だが、全体の置換は無理だ。強行すれば問題が生ずる。
 それを推奨する一団にパソコン坊やがいる。彼らの思惑と経営者の理解が相俟って、とんでもない方向に突き進む。筆者は、その例をいくつか見てきた。

       混乱、その八

 パソコンのアプリケーションは「ワープロ」に始まり「スプレッドシート」と続く。注目すべきは、この二つのアプリケーションシステムが、システム担当で開発されなかったことだ。
 しかも、ワープロの最大のユーザーが、情報システム部門であった。自分が必要とするシステムを、自らは開発し得なかった。
 コンピュータの使い方は、考え方が違うと、これほど違ってくるという証明だ。その意味では画期的なことだった。
 経営陣は、これらの現象を注意深くか、何となくか見ている。自分が理解できる範囲内で判断するのは人の常だが、経営陣の本能として、費用/効果は気になる。
 気になるから「同じことが出来るなら、安いほうがいい」となる。
 電子帳票がいい例で、税務署推薦というから、税法上の優位性があると思ったら、利益より制約の多さに驚く。当初から、これは税務署の陰謀という議論が姦しかった。
 システムのバージョンアップにも税務署が介入すると聞いて、躊躇した企業が多かった。
 情報システムの有り様は、企業の生きざまに関係する。大切な生命を他人任せにするとの判断はおかしい。情報の大切さを口にしながら、何も考えていない証拠ではないか。
 ハードウェアはともかく、ソフトウェア(特に情報は)は大切な資産だ。大切な生命線とは、戦略に関わる資産である。システムの外注とは、情報の社外流出である。
 物事には種々の見方があり、どの見方がいいかは問われない。だが、経営は結果責任なのである。
 ここにも混乱がある。大切な資産を外部に公開しながら、一方で、情報は大切、情報保護はすると言う。法的な制約からか、どの企業も「個人情報は守る」と外部に出す文書に書く。
 実態からすると、本質とは関係ない。順法精神からとも思えない。
 資産の中に、情報は入っていないようだ。無意識に「個人情報は大切にする」と言っているように見える。そう言わないと処罰が恐いから、のようにも聞こえる。
 こういう矛盾の中で、各社は、情報システム部門の扱いに困っている。
 この解決は、そんなに難しくて、複雑なのか。筆者の目には、人間の無能さ、無責任さだけが残ってしまう。

  混乱の解決、Federal Decentralization

 Federal Decentralizationは「連邦的分権制」と訳される。個々のシステムは分権し、全体は連邦(統合)されている、という意味だ。
 この議論を筆者がしたのは、1993年8月号の本誌である。この考え方は、混乱からの脱出の一つの工夫だ。
 システムの集中と分散。この議論も、MIS、SISと同じく、メーカーの販促的な側面が強かった。集中が過ぎて大型機が売れなくなると、分散と称して、小型機や端末機を売ろうとする。
 決して、ユーザー満足度を目指してとか、ユーザーの状態を考えてではない。
 分散が行きすぎると、再び、集中システムを勧める。集中か、分散かのシステム議論は、ユーザーではなく、常にメーカーの都合だった。
 本当に必要なのは、連邦的分権制システムの構築なのである。
 Federal Decentralizationとは、分散された個々のシステムの統合なのか、集中したシステム機能の分散なのか、方法は別にして、何を集中し、何を分散するのかがシステムには大切だということである。
 しかし、日本でこの議論が沸騰した例しがない。皆無ではないにしても、皆無に近い。その理由に、体感していないことが挙げられよう。
 日本の地方は、中央官庁の下請けというのが実態だ。それに反発が出る。変えろと言う。日本全体が、同じようだ。外国に進出した企業の行動が批判される。
 内容は、「何でも本社にお伺いをたてる」「出先に権限がない」などで、これでは連邦的分権制(権限委譲)とは程遠い状態だ。
 国の制度ではないのだから、実践したらいいのに、どこもしない。
 難しく、結論の出にくい議論が、結論を後らせる。遅さに業をにやすと、人は乱暴な行動に出る。危険である。パソコンの出現と、導入の経過を見ると、情報システム機器として統制のとれた導入を行った企業はない。
 何を自由に、何を抑制するのか、その区分が公に認識されるまで、無理なのだろうか。
 情報に対する態度も同様で、個々の情報収集を強化すればバラバラになり、共同利用、共用を強めれば、どうでもいい情報しか集まらない。
 何が大切かは個人で判断され、大切なものは個人所有され、どうでもいい情報の集積物が出来あがる。
 必要な情報を、必要な時に、必要な人に、という「情報のイロハ」は行方不明になる。
 情報システムのアウトソーシングの仕方にも、情報感度の鈍さを感じてしまう。
 情報に対する価値感は共通であるべきだ。企業によっての多少の違いはいいが、根拠が明確で共通でなければ問題だ。何故そうなのか、そうするのか、すべきなのか、それを明確にしなければ、情報社会に存在している企業とは言えないではないか。

     混乱の解決、新しい文化の創造

 連邦制の実感は難しくても、実感出来るものに「文化」がある。その国の文化は、その国のシステムに影響する。同じくその企業の「文化」はその企業のシステムに影響する。
 新たな「文化」として「評価」の仕方がある。「評価」そのものは新しくないが、他人がすでに評価したものの追認ではなく、自らの判断でする「評価」のことである。
 未知のものを評価する術を持つことである。知らないことに、反射的に「ノー」と言わないことである。知らないことにも「イエス」と言える評価基準を持つことである。
 これは、義務的、反射的に「イエス」と反応しろと言っているのではない。それなら反射的に「ノー」と言うのと同じことになる。
 外国が評価をする。例えば、ノーベル賞。昨年の騒ぎはいい例で、評価というより、慌て様はいかがわしい。
 外国に帰化した人まで、日本人扱いし、カウントし、歓喜する。自国民の業績は、自国から率先して評価する。これを「文化」と言うなら、それがない。
 他人を評価することは、他人の持つ情報を評価することにもつながる。この態度は、情報共有の下地になる。それが出来ねば、何時まで経っても事態は改善しない。
 だが、実現は簡単ではない。長い年月と努力が必要である。果たして日本は日本人は、日本の企業は耐えられるだろうか。(HumioTAHARA)


 田原文夫氏著作物案内  CR選書「消費者行動論」

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