論点を探る 田原文夫氏の観方 2009年1月号より
論点を探る
アウトソーシング化は何故進むのか
内部情報活用の未熟さ、無関心さを考える
田原文夫
情報システム部門の受難時代再来か
情報システム部門のアウトソーシング化が、またもや一層の勢いを増して再開されたようだ。
再開と言うのは、以前にも、アウトソーシング化が流行した時代があり、再び本社への回帰が流行した時代もあったからだ。
分離独立出来ない部門は一人前ではない、という風潮の時代もあったし、情報システム部門こそ本体に所属させるべき、という風潮の時代もあった。
だが、情報を扱う部門の扱い方としては、何か問題がある。今、どういう風か吹いているのか知らないが、情報システム部門のアウトソーシング化が流行しだしたのは何故だろうか。
第一に、情報システム部門に対する誤解、
第二に、情報システム部門自身の非力、が原因なのだろうか。
システム作りは力仕事といえば、古い人は即座に納得するが、今の人はどうなのだろうか。ITといえば、格好がいい。格好はいいが、中身はどうなのだろうか。
こんな話題で今年を始めたくはないが、大切なことだから、放ってもおけない。
米国の大統領選挙が終わった。過去、大統領選挙の常連に、ロス・ペロー氏がいたが、今年はお休みだったようだ。年齢(1930年生まれ)もマケイン氏共和党候補より上だし、参戦の情熱を失ったのかもしれない。だが、お祭りに常連がいないと、何となく淋しい。
ロス・ペロー氏は、EDS(Electronic Data Systems)の社長だった。EDSの運命は、情報システムの運命を見るような気がする。
またEDSは、ユーザー企業のシステム部門を買収し、事業を拡大していく。その後、この手法を学び、真似した企業は世界中に多い。
EDSを買収したGM(General Motors)は、EDSの将来性に賭けた。ペロー氏は、GMの役員になるが、数年で退社して、ペロー・システムを設立する(1988年)。
退社の理由として「GM社の硬直した官僚的態度」を挙げているが、真実は分からない。
どうして情報システム部門だけが、社外に出たり、戻ったりを繰り返すのだろうか。
あるときは、邪魔者や、カネ食い虫に見え、あるときは、必須組織で、重要部門に見えたりするからだろうか。
いずれにしても、こんな社内組織は、他にあまりない。
処理の分類/情報の分類
その一方で、情報の大切さは言われ続ける。だが、経営者の行動は、情報を粗末にしているように見えてしまう。
例えば、情報漏洩は気にするのに、情報公開(情報システム部のアウトソーシング)を進める。それを矛盾と考えないのか、考えようとしないのだろうか。
だが、これが日本だけの問題でないところが興味深い。情報システム部門に、一体何が起こっているのだろうか。
筆者は、システムをいくつかに分類する。それが、
@コンピュータ処理、
Aデータ処理、
B情報処理、である。
内容は、
@コンピュータ処理は、仕事をコンピュータに移す、古典的な言い方では「機械化」とも言えるものである。分かりやすい例では、銀行のATM、CDがそれである。ただし、これは銀行内の事務を顧客に移し、しかも顧客から料金を取る、というやり方で、考えようでは悪質でもある。
一般的には、社内業務の機械化は、顧客、取引先に負担をかけないよう目指すが、実際は、ATM、CDと同じく、社内業務の合理化となる。帳票を統一し、その使用を取引先に強要したり、現場の仕事からは、考えられない事態が頻発する。
コンピュータで事務の合理化を図るという名目で、社外に不当な要求をする。その事実を知る当該企業の経営者は少ないだろう。
言い換えれば、顧客満足度の向上を図るとか何とか言いながら、企業の名誉、信用を傷つける行動が平然と行なわれているのだ。
Aデータ処理は、社内で発生するデータを処理することである。売上、製造量、給料などに関するデータの処理をする。ほとんどの企業で行なわれているが、このシステムを日本ではデータ処理システムあるいは情報処理システムと呼ぶ。英語ではDPS(Data Processing System)という。
B情報処理は、Aデータ処理の続きで言えば、外部情報を扱うシステムで、日本では、ほとんど見ることがない。
情報分類について、日本では、データ→インフォメーション→インテリジェンス→インテレクチュアルの流れが一般的だが、ここでは、データは内部発生情報の意味で、インフォメーションは外部発生情報、という分類(ラリー・カハナー)に従う。
日本語で言うインフォメーションとは、言うまでもなく、英語ではインテリジェンスに当たる。米国の情報機関、CIA、FBIの「I」は、Informationの「I」ではなく、Intelligenceの「I」であることからも分かる。
立場によって必要情報は変わる
経営者が必要とする情報は80%が外部情報で、20%が社内情報だと言われる。人によっは、外部情報の割合はもっと高い。
それに対し、現業を預かる人が必要とする情報は、20%が社外情報、80%が社内情報と言われる。
実は、この状況の差が、システムに対する理解に影響してくる。
経営者が情報システム部門を、@コンピュータ処理部門と考えるとき、特別の反応はない。コンピュータが、合理化、効率化の道具として、省力化のエースとなれば、反対する理由はない。
経営者が情報システム部門を、Aデータ処理と考えるとき、要求する資料が、期待通り(内容、タイミングなど)なら問題ないが、期待したものでなければ、問題が生ずる。
経営者が情報システム部門を、B情報処理と考えるとき、何も期待しない。経営者の必要性を必ずしも実現していないからだ。
つまり、情報処理システムから経営に必要かつ十分な情報が得られないからだ。当たり前のことに対しての不満である。
一言で情報システムと言いながら、内容に対する期待、理解が違うのは大きな問題だ。
問題は、経営者側だけにあるのではない。システム側にも「社外情報は担当外」と広言する責任者がかつてはいたが、今はどうだろうか。
情報システムに対する経営者の理解と期待が違うと、担当者が如何に努力し、頑張ろうと、その組織の存廃が課題になる。
組織存続の決定権は、経営者にあるのだ。どんな組織も、経営者の理解度と期待度で、その運命が決まる。
@システムをコンピュータ処理と考えるとき、外部に出そうという発想にならない。そう発想すれば、それは仕事を無視していることになるし、担当者がやる気をなくすからだ。
Aデータ処理と考えるとき、担当部門は、データ処理利用で「いい経営ができる」と自負するが、内部情報は、経営にとっては必要な情報の一部だという認識がない。その一方で、現業は、内部情報が充実したシステムであればいい。この間の溝は深い。
情報システム構築の最初の状態を想起すればいい。担当は多くが若者。現場もルーチンは若者の仕事。こういう人たちが関わり合って、システムを構築してきた。
当然、上司の仕事は理解できないし、上司も部下の状況をつかんでいなかった。
情報システムがあれば「いい経営ができる」と思い込んだ結果、毎朝、経営者に大量の生データのアウトプットが(かつては紙で)届く。今ならディスプレイで表示するだろうが、経営者は不要だから、すぐにごみ箱行きになった。
この行動は、担当者から見ると、データが活用されていないと映る。経営者の行動に不信感を持つ。
世代間ギャップ、職能間ギャップ。階層ギャップ。これは仕方がないことで、誰の責任でもない。
データ処理は、別名事務処理とも言えるが、時として、合理化の対象になる業務でもある。ルーチン業務は、そういう目で見られやすい。
ルーチン業務はコストが安い方が良い。そういう発想が、社外が安ければ安い方に移そうという発想になる。
費用対効果は、経営者の最大の関心事である。経営結果にすぐ反映するからである。同じことが安く上がる事実さえ確認できれば、経営者に躊躇はない。
こうして、アウトソーシングが検討される。トップの命令だから、すぐに決まる。
ところが、アウトソーシング後に、疑心暗鬼に駆られる。「あの仕事=データ処理は、外部に出して果たして良かったのか」と。
情報漏洩に気付く。積極的な漏洩ではないが、消極的な外部への情報公開(漏洩)だと気付く。情報システム部門の社内回帰の原因になる。
歴史は繰り返す。その繰り返しの頻度が、他の部門に比べて、情報システム部門の頻度は高い。経営陣に情報システムについての悩みも多いのだろう。
だが、こういう基本的な悩みを繰り返すだけでは、決して根本問題は解決しない。かえって、悩みは増大する。
ある部門が厄介者扱いされる。その厄介者を喜んで引き受ける企業がある。両者、ハッピィ、ハッピィの関係だから、万歳と言うべきだが、それなら、何故、放出、回帰を繰り返すのだろうか。
人が変わる。すると、情報に対する見方が変わる。あるいは、情報システムに対する考えが変わる。当然、その人の立場で、扱い方の検討が始まる。これも繰り返しの原因になる。
事務処理をメインにする企業がある。金融業がその代表だが、そういう企業は、名称はともかく「事務処理センター」という組織を持つ。
事務処理(ルーチン)に多くの費用はかけたくないと思うのはごく自然だし、そういう発想はなければならない。
ただ、そうでない企業、製造業、建設業などが、情報システムをそういう目で見たり、そういう目でしか見られない経営陣は問題だ。
そんな態度で、厳しい情報時代を生きられるのか、と心配になる。
情報時代とは、単なる流行語なのか。どうでもいいものなのか、そのようにしか見えない経営者とは、どういう人たちなのか、そういう人が経営者で、その企業は大丈夫なのか、といろいろな思いが駆け巡る。
情報処理力は、技術の問題か
情報時代とは、単なる情報洪水の時代ではない。確かに、情報は洪水のように押し寄せる。
その情報の中から、大切な情報を的確に把握し、見落としのないような配慮が求められる。情報活用の巧拙が、企業の運命も決まる。
情報を大切にする、情報から何かを得る、情報を戦略に利用する、そういう時代が、情報時代なのだ。多くの企業で、そういう理解は出来ているのか、対応できているのか。
情報処理とは、何かを聞き、見、感じることから始まる。
ある情報について、何も感じない人、何かを感じる人、敏感に反応する人、反応の鈍い人、といろいろな人がいるが、これは、技術者と似ている。
技術習得は、誰でも同じように出来そうだが、実は出来ない。
ノウハウの客観化として、技術データベース作成を何度も試みたが、残念ながら、成功した例は少ない。
理由は、技術は個人にディペンドするからだ。技術には習熟が必要である。習熟には、時間がかかり、個人の能力にも関わる。
結果は、技術者データベース作成に変わる。技術データベースが、技術者データベースへに変わる。これが持つ状態は重要だが、現実的で有効だが、こういう議論が広がらない。
また、情報技術(IT)と言うが、情報技術とは、コンピュータに関する技術(テクノロジー)だけではなく、情報(インフォメーション)に関する技術なのだが、その匂いは薄い。
日本では、情報に対する理解が不足しているように見える。情報の重要性は、多くの人が言うが、口先ではともかく、実際の理解には疑義を感じる。
コンピュータ処理、データ処理、情報処理。これらを外観だけでは区別できない。では、どうしたら見分けがつくのだろうか。
一つ目は、それぞれの企業の情報システムの出生から見るといい。当初、多くの企業で、情報システムの担当部門は、メーカー名を付けていた。例えば IBM室。
要するに、コンピュータすなわちIBMだった。コンピュータを使っているというのが自慢の時代でもあった。その名残を引きずっている企業は、もうないだろうが、こういう企業の出生は、経理部が多い。仕事が決まっているからだ。
二つ目は、現場が発端という企業である。現場といってもいろいろな現場がある。
製造現場から始まったシステムは、効率的、能率的のためである。当然ながら、こういう企業は、情報システムを外注しようと発想しない。何故なら、企業の心臓部門を切り離すことになるからだ。
研究・開発からシステム作りが始まった企業は論理的にはともかく、実際には皆無だ。この時代、研究・開発の合理化、効率化のためのシステム作りが先行ではおかしい。
三つ目は、営業現場からのシステムである。デリバリー状況、在庫問い合わせなど、顧客サービスのシステムである。顧客サービスの向上を狙いとする。
MISは、当初から、これらのシステムの統合を目論んだ。統合といっても、個別システムがあっての統合ではない。目指したのは、最初から大型機利用による全体システムの構築だった。理想は高かったが、現実とのギャップも大きかった。
全社的な規模で、社内情報を一早くトップ経営者に集中し、もって経営意思決定を支援しようというものだった。勢い、対象となる情報発生源が増えるに従って、より規模の大きな処理能力を持つコンピュータを必要としていった。
情報システムの三形態
上述の情報システムの三形態とは別に、次のような二区分も出来る。
一つ目は、社会第一主義システム、
二つ目は、人間第一主義システム、である。
前述の三形態も、この二形態の区分も一般的ではない。
社会第一主義システムとは、その組織固有のシステムであり、そのシステムを通さなければ仕事にならない、仕事をしたことにならないというシステムである。
例えば、契約、配送、在庫など、システムの存在を無視して、従来からの手作業ですれば、その仕事は、していないことになるシステムである。
システムを使わなければ、旅費・交通費の精算も出来ないと言えば分かりやすいだろう。
システムを経由しなければ、精算できない、つまり個人負担になるというシステムは、強制力が伴う。そういう意味で、社会第一主義システムと呼ぶ。
こういうシステムは、その組織を維持するためのシステムでもある。
人間第一主義システムとは、情報処理は個人的なものである、という前提にたつ。言うまでもなく、情報に対する態度は千差万別だからだ。
コンピュータが使われだした当初は、コンピュータの情報に対する有用性は分かっていても、使いにくさ、使い方の不明確さなど、活用機会が少なかったが、パソコンとネットの普及で、実態はともかく、コンピュータを使っての情報活用は急速に進んだ。
企業からは、この状態をどう活用するのかという問題が生ずる。その活用度が、その企業の情報力になる。
社会第一主義システムは、企業経営に必要な戦略を立てるのに、役立つシステムにはならない。事務の効率化と、結果としてのデータ収集が目的だからである。
人間第一主義システムは、情報の宝庫であり、戦略に役立つシステムになる。
だが、情報源として、社会第一主義システムからのものもある。社内データの宝庫だからである。 社内情報に対して、社外情報の発生源は多様である。これは、経営に必要な情報の発生源の多様性を意味する。その情報収集にどう取り込むか、である。
社長が必要とする競合他社の情報は、実は社長でなければ集められない、という事情がある。
しかし、こういう問題を真剣に検討した気配はない。
EDSの運命に見る。社長がペロー氏であろうと、GEに買収されようと、EDSの仕事には何の変化もない。EDSは今もGEの傘下にあるが、消息を聞く機会が少なくなった。
ごく最近になって、HP社のシステム受注の記事を見た(ビジネスウィーク、2008,9,29.)。
このシステム分類について書いた記事をグーグル・デスクトップで調べたら、一番古いので、本誌1992年 3月号と出た。
情報という冠詞
今まで、本稿では、システムを「情報システム」と呼んできたが、情報システムを名乗る部門と、名乗らない部門がある。
部門名の変遷は興味深いが、統計がないので、正確ではないが、システム部から情報システム部へと部門名の変更が行なわれた時代、再び情報が取れ、システム部へと変更された時代がある。
「情報」が冠詞になった理由は何だったのか。情報がつくときは「情報」を重視し、取れるときは「情報」を軽視している、というように見える。
そうなった事情は、企業そのものにもあれば、当該部門にもある。
要するに、この部分でも、その企業の「情報力」が試されているのだ。
いずれにしても、かつては花形部門だった情報システム部門が、今は邪魔者なのだろうか。この扱いを見て、ある意味、情報時代といわれ、情報洪水の時代といわれても、情報の扱いに困っている企業が多いと言えないこともない。
見方によっては大変なことである。情報に疎いという証明だからである。これで情報時代を生き残ることが、果たして出来るのだろうか。
情報を的確に扱っている企業は少ないと言ったら言いすぎだろうか。
実際、情報を重視している企業は、その正体をなかなか見せない。情報というのは、それほど繊細な、微妙なものだからである。
人間第一主義システムの構築は、単体では簡単だが、全体システムとしての構築は、実は難しい。個性的だし、個別的だからである。
他人が理解しにくい情報システム。そういう情報システムが、本当は大切なのである。
「あんなことをして」といわれる有用なシステムがある。ムダ、といわれながら役立つシステムもある。
システムの是非、善悪を一概に表現できない。自分が理解できないことを評価する。これも大切な情報処理だが、難題だ。
インターネットの活用が進む。進んではいるが、進み方にいろいろある。丹念にネット・サーフする人がいる。それを不審そうに見る人がいる。インターネットを軽視する人がいる。インターネットは遊びの道具、と決めつける人がいる。
それぞれに言い分はあろうし、それぞれに意見はあろう。だが、それが、大切な情報処理なのである。
これほど違う情報システムを統一する、全員で使えるようにするといえば、論理矛盾だが、それでも統一に挑戦せねばならない。情報の共同利用は必要なことなのだ。
「あの人のファイルを見たい」という欲求は、理由は別にして、誰にでもある。それをどう実現するかである。
実現したくないなら何もしなくていい。だが、それでは情報システムにならない。インターネット上には、見てもらいたいファイルが公開され、満ち溢れているが、見られたくないファイルを、人は見たがるものなのだ。
人は、見てはいけないものを見たがる。この欲求を否定するのは簡単だが、実現するのも大切だ。誰でも、何時でもそういう情報が見られると、それだけで興味を失う人もいようが、そこまで気にしない。
各社の情報システムは、過去の経緯、つまり、若者中心に作られたという事情を無視できない。各社の情報システムの長所・欠点はそこから生じる。
では、年長者(上位職位者)に必要な情報システムは、年長者自身が作らねばならないのだろうか。
答えは「イエス」である。
だが、その動きは見られない。何度も言うが、これが情報システム部門全体に大きく影響しないはずがない。この状態が続けば、他人の情報は見たいが、自分の情報は見せたくないという風潮が広まるだけだ。
情報システム全体が理解できなければ、必要なものの公開といっても、実現する可能性は低い。
人間第一主義システムといっても、全員に平等に、公平に公開するということも、言うのは簡単だが実現は難しい。
企業内でそうしたシステムが完成した、としよう。公開初日、何が起こるだろうか。
全員が見たがるファイルがある。それが「社長のファイル」である。だが、果たして社長のファイルは公開されるだろうか。
一般的には、一般社員のファイルは公開されても、社長のファイルは公開されない。アクセスにはログを取ると宣言する。それでも社長のファイルを見にいくだろうか。
たとえ公開されていたとして、見てもいいが、何となく気が引けるということにならないか。
情報システムには、こういう難しさがある。
大型機しかない時代から、一人一台の時代になり、自由にコンピュータシステムが使える環境は、好ましくなっているが、逆に、全体システムの構成力が落ちているのではないだろうか。
これだけ全社に様々な情報システムが存在するようになったにもかかわらず、全社を俯瞰的にカバーするシステム構成ができていないようだ。
まさか、もう必要ないというわけではないだろう。かといって、散在している個々のシステムを繋げば、全体システムと呼べるものでもない。言うまでもないことである。
単体のシステムの有効性と、ネット繋がりのシステムの有効性。その差を説明しなければならない時代ではないが、それでも考えなければならない時代ではある。
情報感度
自分では大した情報と思わないものが、相手には何ものにも代えがたいものもある。その逆もある。情報とは、それほど厄介で、扱いにくいものである。
コンピュータを使って仕事をしている人がいる。仕事にコンピュータを使っている人がいる。この差は大きい。
外見が一緒でも、内容まで一緒のはずはない。ネット繋がりは、仕事に関係ないファイルを見るという問題を起こす。
だが、あれはダメ、これもダメでは何も出来なくなる。そうかといって無制限では、始末が悪い。
パソコン出現当初、いち早くパソコンで作業をする人は、尊敬の目で見られたが、今はよく見るとゲームに熱中しているということがばれて問題になる。
パソコンがない時代には、手持ち無沙汰は見分けがついたが、パソコン画面に見入っていると、内容はともかく、仕事をしているふりは出来た。
出勤定時の1時間前に出社し、仕事を済ませ、全員が出社したころ外出する人がいた。外出先はゴルフ場である。夜になると球場に出掛け、プロ野球観戦をする。
外見からは、仕事をしているのか、遊んでいるのか分からない状態が何年か続いた後、1億円の商談をまとめた。1億円も、今の時代の1億円ではないし、時代が違うので、比較は難しいが、1億円は、今の10億円に相当するかもしれない。
こういうことを何年も続けた本人も、それを許した上司も、大したものと感心した。
こういうことができる環境は、何時の時代でも大切だし、必要なのではなかろうか。
「コンピュータ部門で働いています」というのが、最先端の職場で働いていると誇れた時代が、今は昔、普通のことになってしまった。時代の変化である。
先端的なものが何時までも先端のはずはないが、何時までたっても基本中の基本というものはある。
前者は、コンピュータの能力だし、後者は情報処理能力だと言える。
「情報共有」は永遠のテーマである。だだし、システム的に情報共有をどうするのかではない。人間的な情報共有はどうなのかである。
各自、自分用の机を持っている。最近、専用机は減っているようだが、全廃されたわけではない。共有とは、各自が持つ机の引き出しを公開することでもある。
筆者の記憶だが、TQC華やかなりし時代、各自の机の内容物を調べる計画が持ち上がった。調査の前日、多くの人は、私物を整理し、自宅に持ち帰った。私物が仕事に必要というのも変だが、細かいことを言わなければ、そういうものもある。
リーマン・ブラザース社が破綻したとき、社員が私物を抱えて退社というテレビ画面が出たが、洋の東西を問わず、会社に私物を持ち込むことは、あるようだ。
情報の公開、共有が原則なら、こういう行動は困る。ただの一人であっても、こういう行動はあってはならない。その私物も共用の対象になるかも知れないからである。
その間、情報の共同利用が妨げられる。
しかし、それは原則、理想であって、実際には理想に反する行動は必ず起こる。調査が終われば、私物は当然のごとく元に戻る。
情報公開と情報保護の両者の共存は難しい。全員に知らせるべき情報と、誰にも知られたくない情報があるからだ。
両者が別物ならいいが、同一の場合もある。情報公開、情報共有。この問題と、システムのアウトソーシングには何か関係ありそうな気がする。
(HumioTAHARA)
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