はじめの言葉   2009年6月号より

                 はじめの言葉

■1945年、コンピュータは大陸間の弾道計算を目的に開発されたとされる。その戦争目的のコンピュータが商業用マシンとして紹介されて60年。コンピュータ産業の先駆者である巨人IBMに追いつくことを目指して実に様々なメーカーが挑んできた。UNIVAC、バローズ、CDC、NCRといった外国勢、そして富士通、NEC、日立製作所、東芝、三菱電機、沖電気工業といった国産メーカーの果敢な挑戦があった。
■日本のコンピュータ市場は、常に本家アメリカに次ぐ世界第二位の大きな市場として成長してきた。そこには、実に多くの人々の心血が注がれてきたことは言うまでもない。様々なエピソードが残されており、その往事を偲ばせる。たとえばIBMの元教育部長安藤馨氏がいる。昭和39年、彼の勇断で東京オリンピック委員会に日本初のオンラインシステムが寄贈され、それが契機で三井銀行(当時)の導入につながった。
■オリンピック開催となると多くの企業が協賛し協力するのが常だが、安藤氏によると大会中の競技記録をオンラインで収集する我が国初の試みとなったコンピュータシステム一式を寄贈してしまうことは、IBM本社の意志に背く形で進められたものだった。しかし、これがその後、日本市場でのオンラインシステムの普及に大いに貢献した歴史的事実として残ることになった。
■もちろん、その後のIBMビジネスの躍進に繋がったことは言うまでない。しかしこのエピソードはIBMの社史から消え、同時にオリンピック委員会との窓口役も安藤氏ではなく竹下某氏だということになっていると聞いた。推測だがおそらく、その後安藤氏が富士通に移籍したことと関係あるものと思われる。この移籍に大きな役割を果たしたのが富士通の小林大祐氏(元社長)だった。
■小林氏も本来は技術畑の出身の人だったが、池田敏雄氏という天才技術者に一切の開発を任せ、自身は営業に精力を注いだと言われている。そうした発想が、当時としては珍しい「競業企業からの引き抜き戦術」を実行させたのかもしれない。いずれにせよ、他社に先んじた発想、行動によって、新たな歴史が築き上げられてきた。やがて日本市場での実績で日本IBMを富士通が凌駕することになった。
■これまでのコンピュータ産業界の歴史を作ってきた先人達の多くが鬼籍に入ってしまった。かつて隆盛を極めた多くのコンピュータメーカー各社の雄姿も、いつしか消えてしまった。文字通り、一時代が終わった。そして多くの真新しい企業が、新勢力として続々と名乗りを挙げてきている。こうした新勢力の台頭に逞しさを感じながらも、ある種の寂しさを感じざるを得ないのも偽らざるところである。
■私事ながら、弊誌の創業創刊に携わってきた編集発行人の藤見虎敏が去る3日、28年間の闘病生活に終止符を打ち、83年を一期として永眠致しました。創刊以来49年、コンピュータ業界を脇から見てきた存在でしかありませんでしたが、多くの皆様方に支えられての生涯でした。多くの方々と様々なエピソードを共有することを第一の財産とする幸せな一生だったと確信する次第です。読者諸賢はじめ、皆様方から賜りましたご芳情に、故人に成り代わり厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(藤見)

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